信じる、ということ。

 日本の文化(社会)について、非常に奇妙だと思うことがある。それは、

 「私たちは日本国民だ!」

 と言うのをためらう、ということ。日本国旗を掲げること、特に日本国歌を歌うことに、強烈な嫌悪感を示す人達が少なからずいる。それをするのは、国粋主義的な、いわば度を越えた国家あるいは天皇への信奉・崇拝を意味し、それをするのは嫌だ、ということだろうか。それらはかつての軍国主義を思い起こさせるものでもあり、受け入れがたいものでもある、ということだろうか。

 だがしかし駄菓子菓子(一年前の思い出です)、果たしてこの「自国の象徴を否定する」風潮は、肯定されるべきものなのだろうか。

 「人間はポリス的動物である」と言った人がいる。人は集まって社会を形成し、その中で生きるものだ、という。こんな古い言葉を持ち出す意味があるか判断に困るところもあるが、だがやはり、人間は集団への帰属意識(一体感)を持って安心感を得るところがあると思う。家族との一体感、友人達との一体感、あるいは流行への一体感もあるかもしれない。逆に集団から孤立したときは、不安や恐怖感すら感じるようである。
 伝統芸能のある島や村の若者は、非行に走ることが少ないという傾向があると聞いたことがある。やはりこれも、集団への一体感や帰属意識がもたらす効果なのだろうか。
 不和な家庭で育った子供は、そうでない家庭の子よりも非行へ走りやすい傾向があるとも聞く。やはりこれも、集団への一体感がないゆえの効果なのだろうか。

 さて話を戻そう。先ほど書いた「自国の象徴を否定する」風潮は、その「自国」への不信感を意味し、その国内に不和をもたらすと考えられる。「自分の住んでいる国は、欺瞞に満ちている」というような感覚である。するとそれは、その国民を不安の中に引き込むのではないか、と考えられる。ちょうど家庭や地域の中で落ち着けなかった子供のように、その国民は自国の中に落ち着きを見出せず、信じるべきものを失い、心に乱れを持つのではないか、ということだ。

 いまの日本は、常識を逸脱するほど犯罪大国になっていると思う。毎日のように殺人事件が報道されているのではないだろうか。しかもそれは、自国民が自国民を、生徒が先生を、ある人が近所の人を、家族が家族を殺めるような犯罪である。そしてその動機は、通常(もはやこの言葉が意味を成さなくなりつつあるが)のような深い恨みや金銭的なものを越え、軽度と思われる恨み、あるいはほとんど「動機ナシ」のようなものも多い。

 本当の「動機」はなんなのか。結論を出すには私の知る事実があまりにも少なく、あくまで想像の域を越えないが、私は「心の不安」ということを言えると思う。心の安定を得られぬ場合、それは衝動的な行動へと結びつくことが多いからだ。
(芸術をはじめ創作活動のような「表現」の手法を知っている者なら、その衝動を「表現」として作品のなかに「昇華」することができるが、もしその技法を体得していない場合、その衝動はより直接的な「行動」として実行されてしまう。)

 そして、これはあくまで私の見解だが、その不安要素のひとつに「自国の象徴を否定する風潮」も挙げられるのではないだろうか。繰り返しになるが、ちょうど不和な家庭や地域の中で落ち着けなかった子供のように、その国民は自国の中に落ち着きを見出せず、自分があるべき姿を見失い、心の安定をもてないのではないか、ということだ。

 小・中学校の再建で取られる手法として、「学校内の意識・理念の統一」というものがある。しっかりとまとまった集団の中でこそ、子供達もしっかりと成長できる、という考えによるものだ。

 同じように、日本という「国」そのものの再建策として、国民の意識・理念の統一が必要なのではないか。日本人が日本人として、共通に信じられる理念や理想の姿を、苦悩しながらでも見出す必要があるのではないか。国民がひとつの共通した意識を持てたとき、そこに集団への帰属意識が生まれ、国民に心の安定をもたらし、犯罪へと向かう心を止める事ができるのではないか。
 「国」の概念にこだわるのが嫌なら、生活基盤である「地域」単位でもいい。何かその共に暮らす人間同士に共通の認識を、お互いを認め合える理念や理想を、もう一度改めて考え直す必要があるのではないだろうか。

 もう一度、人間が人間らしく生きられるための方法を。

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P.S.
 「新世紀エヴァンゲリオン」というアニメ作品があったのを知っている人も少なくないと思います。私が音楽に目覚めた頃に最初に買い集めたCDは、この作品のサントラ集だったりするんですが、それは横に置いといて、ちょっと話を。
 上に書いた文章や、溢れ返る今のブログ文化(mixiのことは知りませんが…)を思うとき、この「エヴァンゲリオン」で登場した「人類補完計画」というキーワードが突然に頭をよぎりました。

- 人間の心には、誰もが「闇」を持っている。それは、あいまいな記憶。はっきりとは分からない部分。そして、その闇が人を不安にする。だから、人々の心を集め、合わせ、埋めあい、その闇を消すことで、人間は完全になれる。 -

 あまり正確には意味が分からなかったんですけどね。そもそも、あの作品自体がブラックボックスだらけだったようにも思えますが… しかしこの「人類補完計画」というキーワードは、何か重要な点を指摘しているような気がするのです。