Reise IV
:::: その四 ( 6/03-04 ) ::::
ミサを終えて山を下り、ひとまず休憩。昼食兼夕食を食べに行くことに。とはいってもここは小さな村なので、売店なんかほとんど無い。ましてやレストランなんて…
というわけで、車ではるばる出掛けました。温泉に入りたいよね!っていうもくろみもあったので。ところが目的地に着いてみれば、すんでのところで温泉は閉店。ブダペストを出てから一度も体を洗えぬまま、しばらく我慢せねばなりませんでした…
仕方ないので別の町へ行って食事にありつく。ところがこれが美味い。ルーマニア製ビールにグヤーシュ(スープ)と肉料理を食べ、大満足でした。
さて村の教会に戻ると、もう20時を過ぎていました。ここからミサの続きです。昼間とは違って人数もグンと減ったので、今度は教会の中です。
まず最初は、少年少女の楽団によるコンサート。彼らは孤児として教会に住んでいる人達です。で教会の主人(?)が彼らをまとめ楽団にし、オリジナルの音楽を作り、各地でコンサートを開いたりCDを販売したりして自分達で収入を得ているそうです。
始まった演奏は、ポップな感じ。教会の中でバンドのライヴをする、といえば分かりやすいでしょうか。若者からお年寄りまでノリにノッてて、拍手喝采でした。ファンと呼ぶのだろうか、曲を覚えていて、歌詞カードを見ながら一緒に歌ってる人もいました。
「教会でカトリックのミサ」というと、どうしても厳かなイメージがあったんですが、これには驚きました。そして何より、こんなにも村人達を楽しませているということが、とても感慨深かったです。こういう宗教行事のあり方、こういう音楽・芸能事のあり方って、とてもいいなと思いました。
引き続き聖歌合唱があり、ほんとの「ミサ」も始まりました。朝までぶっ続け、オールナイトです。あんなに歩いてきて疲れてるはずなのに、更に朝まで祈り続けるというのは、やはり何か深いものを感じます。「敬虔な」という言葉が、しっくりきました。
私はというと疲れ果ててしまっていて、ミサ中には意識も朦朧としていました。時として眠っていました。それでも、車に戻って眠らずに、教会の中に朝までいようと思ってねばってました。
ミサというのは、出席したことがある人は知ってると思いますが、最後に参列者がそれぞれに握手を交わすんですよね。もちろん今回もありました。
こんな片田舎の小さな教会にアジア人がいること自体、さぞや奇妙だったと思います。旅の途中、驚いた顔で視線を向けてくる人は実際多かったです。でも、この握手のときには何のためらいも無く優しい顔で握手を交わしてくれるんです。
「同じ神を信じるものならば、そこに垣根は無い。」
そういう意識があるのかな、と思いました。残念ながら宗教戦争というのは各地で絶えないものです。ですがこの小さな村にあっては、対立ではなく融和の力として宗教が存在していました。こういう宗教のあり方は、とても望ましいなと思いました。
(正直なところ私はキリスト教徒では無いですが、それを否定するつもりはないし、それを信じる人を否定するつもりもまったく無いので、キリスト教徒を尊重する気持ちを持った上で、私もミサに参列していました。)
ミサが終わり、すぐに再び山頂へ登りました。日の出です。残念ながら地平線から登ってくる姿は見えませんでしたが、数百人が集まって、その静かな朝を迎えていました。
夫婦のいる村に戻り(今度は車です)、朝食兼昼食。ちょっとのんびりして、出発の時間になりました。みんなで記念写真を撮って、お別れの挨拶。私はハンガリー語をろくに知らないので挨拶もまともに出来ませんでしたが(いいかげん少し覚えんといかん)、むこうのおばあちゃんが「あなたに会えてよかったわー!」なんて言ってハグしてくれたり。日本でもルーマニアでも、田舎の人は温かいです。
田舎暮らしになると、お金はないし、便利さも無い。けれど、心の余裕というのは段違いにある。不便だけど、満足して暮らしていける。お金儲けに走ると、心は狭くなり、何かに追われる生活になる。だったら、むしろ田舎暮らしのほうが良いのではないか、と思ったり。
しかしもちろん、お金が無いと新しい知識や経験を得るのは難しい。自分自身、両親祖父母や先祖のお金によって今の経験を得ている。村の暮らしに満足しているというのは、裏を返せば、その暮らししか知らないからだ、と言えなくもない。だとしたら、それは「本当に」満足なのか。
ただ言えるのは、最終的に、そして決定的に重要なのは、やはり人間らしい温かみのある人柄や生活である、ということだ。
では「人間らしい」「温かみのある」とはどういうことか?
これを見極めるために、私はまだ時間と経験を必要としています。
(次回いよいよ完結編!)