バイトで出会う人間達について

 文章化したいことがあったので、ちょっと書いてみます。

CASE 1 : 私の知らない人生

 私は私立の中高を経て大学へ進んでいたので、当然ながら今までの知り合いは「高学歴」寄りの人間が多いのです。それでも大学時代の友人はなかなかバリエーションに富んではいますが。

 私がいま働いているバイト先は、派遣のアルバイトという特性上、いわゆるフリーターも多数働いています。(というより、自分自身がいまソレだってのね) 中には10代の人も幾人かいます。高卒で働きに来た人もいたり、中には高校中退って人もいます。中学出たくらいから土木関係で仕事してた、なんて人もいます。仙台ゆえ、というより東北という土地ゆえでしょうか、例えば高卒(大学に行かない、という意味)の割合も東京より多い気がします。
 
 彼らと話す時に、正直ずいぶん戸惑いがあります。もともと私の価値観は特殊なようですが、それでも今まで話して来た人達とのギャップ以上の差を感じます。私にとって常識的な知識であっても、それが通じない、という場面によく出くわします。(きっとその逆も起きているはず) 趣味趣向も違うようだし、「共通の話題」を探すのには結構苦労します。

 そうこうして話をしたり同じ空間内にいるとき、何だか不思議な気分になります。その場に居合わせたものとして、空間も言語も一応共有してるけれど、きっと全然違う世界のイメージの中で生きているんだろうな、と。同じものを見ているのに、全然違うものとして認識しているだろうし、同じ単語を言っているのに、全然違うものを想像しているように感じます。

 そういう諸々の事情で、まだ友人らしい友人もいなければ大学時代のような居心地の良さもないけれど、でも非常に興味深くもあります。彼らは彼らで、私とは全く違う世界に生きていて、全く違う経験や認識を持っている。ということは、いままでの自分では知り得るはずのないものを彼らが知っているわけで、私の知らない世界を垣間見せてくれる存在でもあるのです。

 重要なキーワードってのは、それまで知られなかったもの、避けられてきたもの、ともすれば社会から侮蔑されそうなものの中にも隠れていたりするので、自分の心が許容する範囲で、そういうものにも少しずつ理解の幅を広げていきたいものです。

CASE 2 : 「生活圏」についての考察

 先日、古川から仙台の現場に通う人に会いました。古川と仙台とは電車で一時間(新幹線ならわずか13分だけど)運賃にして約750円ほどの距離。それがどうしたかと言うと、ちょうど私が以前、バイトで東京まで日々出勤していたのと同じような状況なのです。

 私が東京で入ってた派遣会社も今いる所も、事務所から現場までの交通費を支給、という方式を取っています。すなわち遠くから通う人は、日々かさむ交通費の大半を自分で払わねばなりません。バイトは時給制なので、短い勤務時間だと「それ収入にならないから(泣)」なんてことにもなります。また、仕事を終えた疲れた身体で最終電車に揺られて帰る事も少なくありません。東京では、最終電車は必ず満員でしたし。

 そういう苦労を知っているので、大変だなぁと思いながら話を聞いていました。そしてひとつ気付いた事もありました。 

 私が少しでも早く関東を離れようと思い詰めちゃった原因のひとつは、東京を中心とした生活圏のありかたへの違和感でした。日々1、2時間もかけて通勤するような生活は、自分自身どうしても続けられなかったし、自分よりさらに長い時間をかけて通勤する周りの人達/乗客の疲れきった顔を見るのも苦痛でした。
 自分がいるべきところは、もっと小さな生活圏の場所だと、そう考えていました。巨大な都市圏へのアンチテーゼを見つけたい思いもありました。

 仙台という町は、東北一の町とはいえ、決して大きすぎる事のない町です。列車に乗れば山も海もすぐそこです。満員電車が走るのも、せいぜい30分くらいの範囲内。それだって、せいぜい6両編成くらいの短いものです。東京みたいに3分間隔の15両編成が満員なんて状況とは、雲泥の差。それくらい、仙台は東京圏に比べて圧倒的に小さな町です。
 私自身も今、件の事務所までは自転車なら20分程で行けるので、その小ささを実感していました。「やっぱり、これくらいの規模がいいよ。」なんて思っていました。

 けれどそれは私の早とちりであって、確かに絶対的な規模は小さいとはいえ、現実に1時間以上かけて仙台まで通勤している人がいる。私が今思う仙台地域での「遠くの」場所から通う人達は、思い返せばたくさんいたのです。たまたま自分が仙台中心部に引っ越してきて、そこを基準に生活圏を捉えているから、仙台は小さくまとまっていると思い込んでいるに過ぎないのです。

 そもそも横浜にいる私の親・家族は、自宅から職場まで15分ほどの範囲で生活しています。東京にだって、自宅と職場とが同じ人、すなわち本当に小さな生活圏で暮らしている人もいっぱいいるはずです。

 結局のところ、人間の生活圏なんて、町の大小で決まるものではないんだと、そんな単純な事に気付けてませんでした。というより「生活圏」という言葉を何か勘違いしていたような気がします。大都会だろうと、ど田舎だろうと、生活圏は個人個人の周りに存在するに過ぎなくて、ゆえに生活は各々が自分で創っていくものに過ぎない。

 自分が書こうとしているものが文章から見えにくくなりつつある気もするので修正すると、私が世界/現実だと思っているのは、あくまで私だけの世界/現実に過ぎない。分かっていたはずなのに、それを一般の現実と履き違えていた。その事を、一連の通勤時間の話で思い出す事ができたように思う。

 言葉はおそろしい。言葉があるおかげで物事を考えられるのに、言葉のせいで思考を誤ることもある。
 他人から聞いただけではなく、言葉を自分のものにできるよう、嘘偽りのない自分自身の言葉を紡ぎ出せるよう、もっとたくさんのことを学ばなくては。