言葉と心
先日、国際結婚の夫婦の結婚式を撮影する機会をいただきました。アメリカ人の新郎さんと日本人の新婦さんで、主に親族を招いての式・披露宴でした。
新郎の家族が数名アメリカから来ていたんですが、当然ながら日本語が分かるわけでもなく、また新婦の家族・親族も英語が話せるわけでもなく、最初のうちはやっぱり少し距離感があったような印象でした。でもだんだん時間が経つにつれ、それこそ異様なほどの盛り上がりをみせ、なんだろう、会場全体の一体感すら感じました。
この日ここに居合わせて、すごく懐かしい感覚がありました。それは、言葉が通じないからこそ生まれる「伝えたい」と願う心のこと。
親族の爺ちゃん婆ちゃんや、おじさんおばさん達が、新郎やそのアメリカから来てる家族に、英語は分かんないんだけど、それでも何か話しかけたくて、もどかしくて、ほんともどかしくて、英単語どころか東北弁なんだけど、身振り手振りで話してるうちに、なんだかお互いに分かりあっちゃう。
新郎の弟妹も、最初は自分の席にいるばっかりだったのに、気付けば色んな所に呼ばれて混ざり込んで記念写真撮ってみんなでワイワイ楽しんでる。
人間は言葉で情報を伝えあい、社会を作り生活しているんだけど、ふと言葉を口に出せば(少なくとも表面上は)相手に伝わるから、だんだんそれに慣れてしまって、本当に「伝えたい」と心底思う機会は減っていってる気がする。
ところがこうして言葉の分からない相手と接するとき、何か話しかけたくても、なんて言っていいか分からなくて、とてももどかしくなる。このもどかしくなる時にこそ、「伝えたい」という自分の気持ちにはっきりと気付ける瞬間なんですよね。
そしてこのもどかしい時間は、もちろん両方にとって(お互いを分かるための)苦労の時間になるんだけど、だからこそ何かが通じちゃった後の喜びは普段の比じゃない。
純粋に何かを分かりあえたときの喜びというのは、ある意味すごく原始的な喜びなのかもしれない。でもその原始的な喜びは、やっぱり他では味わえない類いの喜びだと思う。音楽のセッションや、何かの制作会議なんかでもいい、何て伝えていいのか分かんなかったけど、お互い何かが分かっちゃった時って、すごく嬉しい。
この前の結婚式の時にも、この原始的で純粋な喜びがあったから、あんなにも盛り上がっちゃったんだと思う。もうね、変な話、よくある日本人ばかりの披露宴なんかよりよっぽど盛り上がってたんじゃないだろうか。
国際結婚って、大変な面も多いと思うけど、こういうのを見てると素敵に思えてきます。異文化交流って、なんだかんだでお互い気力がいるけど、ちょっと苦労して壁を越えると、その先には大きな喜びが待っている。
いやぁほんと、この日ここの撮影に行けてよかった。偶然のスケジュール上の都合+英語が多少しゃべれるから調度いいね☆ってだけの理由だったんだけど、とても楽しかった。撮影はもちろん疲れたけど、やっぱり楽しいと疲れも半減するしね。
どうぞ2人も家族のみなさまもお幸せに。
※長い文章をあんまり書いてなかったから、構成力が落ちてる気がする。え、元々だろって? いやいやそんな事言わないで…
P.S.
楽しくやれる撮影は歓迎だけど、夢で撮影のトラブルに直面するのは勘弁してほしい (-_-;) 結構あるんですよね、撮影(のトラブル)の夢。遅刻するのが多いけど、今朝のは更に悲惨。
撮影相手じゃない別の新郎が紛れてきたり、新郎新婦2人が天井からぶら下がる変なロープによじ登ってるところを撮らされたりと、まぁ最初からしておかしいんですが、その後の式前にロケフォト撮りにいく事になって、撮影場所を決めてねって言われたのに、こっちが指示する前に会場スタッフが2人を車に乗せて出発しちゃう。
慌てて電話して場所の指示をするも、理解してもらえない&なんだか話が通じない。んでとりあえずこちらも出発しようと(一緒に撮影に行ってる)ビデオの人の車に乗ろうとすると、彼も先にどこかへ行っちゃってる。困ってるところに2人を移送してる会場スタッフから電話で「ここで撮れ」みたいに場所を勝手に指定され、そこ(かなり遠方)までどうにか行かなきゃとビデオの人に電話するも全くつながらず、車が無く移動できない自分一人で途方にくれて、焦る焦る…
みたいな話でした。言葉で説明するのが難しいですけど、目が覚めてからも最低最悪な気分でした。せっかくの休日の朝に、なんて夢を見てるんだ、私は。