個と全
話は戻りますが、フランス研修キャンプ中に思い出深い出来事がありました。今まで「個人主義」「全体主義」という言葉は知っているものと思っていましたが、改めてこれを実感するに至ったのでした。
核心に触れる前に、出来事をさらっておこうと思います。まず私達は、合計40人弱、5台の車で研修キャンプに出発しました。当然5台での移動は、慣れないとややこしい事になるのは想像できると思います。しかも学生の一部がサポート運転士として加わっているのに。
1.まず驚いたこと。現地の地図が、わずか2枚しかない。無線連絡が取れるとはいえ、これはあまりにも頼りない。
2.フランス内で各地を周る際、運転士が行き先、待ち合わせ場所等を正しく把握していない。運転士同士の打ち合わせも不十分。
→結果として、1台がはぐれた、とか、集合時間がぐちゃぐちゃになった、とか、
道が分からないという事態が多発しました。一体ここのスタッフ達は大丈夫なのかと、自分がプロデューサーになったような気持ちで心配で心配で仕方なかったです。
それから、訪ねに行く先々で、見学の後いつのまにか自由時間になっていたりしました。問題なのは、待ち合わせ場所・時間を言わずに個人行動にしてしまうこと。ドイツ語の不十分な外国人も少なくない状況で。好き勝手な行動をする幼稚園児みたいな若者もいる状況で。
→いつか起こるんじゃないかと心配していた事が、現実になってしまいました。
散策ルートのある場所で自由時間になり、いつの間にか集合場所・時間を設定されていて、私はそれを人づてで聞けたのですが、これはヤバイなと思っていました。案の定、一人がいつまでたっても集合場所に現れない。車4台を先に帰らせて、一人を散策ルートに探しに出し、反対側の入り口まで戻りながら探させることになりました。最終的に見つかったからいいものの、時間のロスは戻せません。
もうひとつ。有り得ないような不注意もありました。今回は車5台が完全満席の状態で移動していました。にもかかわらず、出先に一人を置いてきてしまう事態が発生しました。移動先で足りないことが発覚して、車一台が引き返さなければならなくなりました。
さすがに自分の中でも心配が積もりすぎていたし、運営する側にあまりにも準備も能力も配慮もなかったし、たかだか24歳の私ですら事態を断然よくする術を知っているようなことだったので、不満が募って学校スタッフと少し口論をしてしまいました。「なぜ集団を運営しているのに、集合時間・場所の設定とか、人数確認とか、そんな基本的な事ができないのか? 人間一人置いてくるようなことは、事前に避けられたはずだ!」と。
ここでの回答に、私は唖然としました。ようやく事態を把握しました。本当に落ち着いた様子で、澄んだ瞳で、「私は一人の人間に過ぎない。そして、間違いのない人間なんて、いないんだ。」
そして一人を置いてきたことへの説明は、「彼は一人の時間を必要としていたんだ。私達はそれを受け入れたんだ。」
私が団体行動だと思っていたこの研修キャンプは、個人行動の集合でしかなかったのです。だから、管理管轄といった言葉はほとんど存在しない。集合場所・時間を知らないのは、聞かなかった本人の責任。置いていかれるのも、集まれなかった本人の責任。
また集合時間・場所を決めるのは、個人の自由を縛り付けるもの。だからその場その場で決めるのが一番いいんだ、という考え方。
あぁこれが「個人主義」ということか、と実感しました。そして彼らの言う「自由」の先にあるものは、こういうことか、と実感しました。
フランスであった授業のひとつ、身体表現の場で、突然川から現れた先生の即興ダンス(というか身体表現)に合わせ、私も即興で組み合わせる一場面がありました。先生としてはこれが信じられなかったらしく、「どうして対応できたのか」と聞かれました。「簡単なことで、相手との間合い、相手の動きを感じ取れば、ある程度は勝手に自分の動きも決まってくる」という話をした。どうも私は授業の内容を先取りしていたようだった。
他にも誰かと組んで相手との間合いを計るような授業が盛り込まれていたが、要するに「間合い」のようなものは、彼らには基本的に欠けている要素のようなのだ。東洋文化的には、相手との関係性の中に自分を置くのが基本になっているが、西洋文化的には「私は私」であって、周りは関係ないのである。
いま学校に住んでいて、学生達の公共の場があるのだが、彼らの多くは例えば自分で使った食器類を全く片付けられない。「公共の場」という意識なんて、ないのである。自分は片付けたくない、だから片付けない。もし誰かが後始末をすれば、「あいつがやるから自分はしなくてもいい」となる。日本からしたら小学生かのような考え方をする20才前後の若者も少なくない現実。
「自分の意見は言える。ただし協調性にかけては子供並み。」
そういう曲面は多いように思われる。
アントロポゾフィーをベースにした学校として、ヴァルドルフ学校というものが世界に多数ある。これらの学校には、正式には”Freie(自由)”という言葉が冠せられる。ここJugendseminarも同じである。これらは「自由な教育」「自由な学校」として、紹介されることも多い。
もしこれらの教育体系が西洋文化的な「自由」を目指すものに成り代わってしまうのならば、決して日本に取り込むべきではない。考案者のルドルフ・シュタイナーこそは、その「自由」の本当の意味あるいは価値を知っていたと信じたいが。
私が思うに、いわゆるヴァルドルフ教育の中身というものは、西洋文化に対しての処方箋であって、東洋的な文化に対しては別の処方箋が必要なのだと思う。彼らが「自由」に対して学ばなければいけないことと、我々が「自由」に対して学ばなければならないことは別なのだ。
私の学校生活を苦にしていることのひとつは、周りの学生達の大半が子供に見えて仕方ないこと。大学時代の仲間のようには、何かしら自分より秀でた素晴らしい才能を持っている人には見えてこないこと。特に今までマイナス面ばかり目立っていたせいもあり、周りへの尊敬の念は正直薄い。(これには目に見える才能しか判断できていない自分の問題も含まれているんだろうけれど。)
一人、お互い適度な距離を保ちつつ仲良くなれたドイツ人の友人がいて、彼とは良い関係になれそうだ。あとやはり様々な実地体験や体感的な授業、外部からやってくる良い先生達によって、私は今ここに繋ぎ止められている気がする。
どうなるんだろうね、ここの生活。学ぶことも多いが、気苦労も多い。
でも最近、ようやく心がFreiburgからEngenに移ってきて、よしここで暮らすぞ!という気合も入ってきたので、少しずつ快方に向かっていくのでしょう。日本語が奇妙な記事になりましたが、頭の中がそんなだってことです。