「明日がある」

 ある日バスに乗って町へ出るとき、後ろに遠ざかっていく自分の村を見ながら、ふと「もうここに来ることは二度とないかもしれない」と思いました。



 「明日がある」という言葉の価値が、最近自分の中で消滅しました。本当は、「明日はもう、ないかもしれない」と。

 なぜか分かりませんが、近頃「死ぬこと」について考えることが増えました。といっても自殺願望があるわけではなく、殺人鬼が近所をうろついているわけでもないので、心配は一切いりません。「今晩何食べようかな」と同じレベルで、「いつまで生きているんだろうな」と思うだけです。

 私の「生」は、おそらくもの凄い小さな確立の上に成り立っているものなのです。綱渡りどころか、糸渡りくらいの確立でしょう。綱渡りなら、バランスさえとってればまず落ちませんが、糸はもう切れるかもしれない。
 だってほら、今食べている豚肉も、餌をくれる人だと思ってた人に、ある日突然捕まえられて、殺され、さばかれた豚さんなのですから。たまたま人間を好んで食べる生物がいないから、私たちがそんな経験をしないだけなのです。
 それにしたって、いつ何が起こるかは分からないものです。乗りなれたバスがある日突然横転し、衝撃か爆発で死ぬかもしれない。何気なくわたった横断歩道で、車が突っ込んできて、死ぬかもしれない。何より、心臓発作や脳内出血、癌のように、体の中に潜んでいた病が突如として表面化し、死んでしまうかもしれない。

 だからといって、(もちろん殺人鬼に銃口を向けられたら怖いでしょうが)明日がないかもしれない事を恐れているわけでもないのです。諦め、とも言えるかもしれません。「いま自分は生きている。死ぬときは死ぬ。」 そういうことです。

 かといって自暴自棄になっているかといえば、そんな事も全くありません。自分がやるべき事は、しっかりやるつもりでいます。「明日やれることは明日やろう」ではなく、「ひょっとしたら出来なくなるかもしれないけど、それでもいいなら明日やろう。」とは思っています。僕は死んだ後に後悔したくない。(死んだ人がどう後悔するのかは知りませんが・・・) だから生きている間くらい、自分なりに一生懸命生きようと思うのです。

 大切な人と交わした、「またね」という、たった3文字の言葉すら、それを保障してくれるものは本当は何ひとつない。その事を把握するところから始まることが、何かあるような気がするのです。

P.S.
最近、写真がないですね。ほんとに写真撮ってませんでした・・・