Apoptosis 2

 前回の記事「Apoptosis」について、やはり文章を追加する必要がありそうです。こういう内容を正確に伝えるというのは、難しい。単純に自分自身の知識も付いていってないという問題もあります。

 まず、「現在の進化生物学では、種の存続のために個体が生きているという考え方は否定されています。」ということを専門筋から教えて頂いたので、ご理解ください。

 私の「ある一部の死によって種の生存がある」という考えのもとになっているのは、分かりやすい例をあげれば「魚」なんですね。数百の卵を産んで、育つのは数匹。残り数百の卵や稚魚が他の生物に喰われたおかげで、その数匹が残った、ということ。もちろん「わざわざ食べられにいった」わけではないので、種を支えるために死んだという言い方は成り立ちません。
 ただ、もともと食べられてしまうのを分かっていて多くの卵を産んでいた、あるいは「子孫を一部失ってもなお残る遺伝子が、最終的に勝ち抜いてきている」と言えばいいのでしょうか。

 自然淘汰という考え方は、なんとも不思議だけれど、とても興味深い考え方だと思います。色々な遺伝子パターンが生まれ、環境によって偶然一部が残り、また色々なパターンが生まれ、はるか数十億年前から現在へ、そして未来へと続いていく… その本当に「偶然」と思える状況の中で、多様な世界が広がっている。

 今年1月に日本(広島)の道端で、とある宣教師の人に会いました。「神様についてどうお考えですか?」と聞かれたので、「私にはよく分からないので逆に聞かせてください。あなた方にとって神様とはなんですか?」と聞くと、こんなことを言っていました。

「もし神がいないとすると、人間はいったいどこから来てどこに行くのか分からないではありませんか。そして世の中のすべてが偶然のことになってしまう。それは不安なことではありませんか? 神を信じることで、神様がいてくださることで、私は私である確信が持てるんです。」

 私はこう思うのです。人間は、生物はどこからも来てないし、どこにも行かない。今ここにいる。それだけ。世界は偶然のつながりだ。でも偶然でいいじゃないか。偶然の中で美しいものや楽しい出来事や悲しい出来事もある。それで十分素晴らしい事じゃないか。神がいてもいなくても、それに関わりなく自分は自分である確信がある。自分の感じる世界には、もう十分なリアリティーがある。先祖も自分も子孫も、みんな自分なりの精一杯を探して、その精一杯をやってる。それだけのこと。それで十分じゃないか、と。

 前回の記事の中で、わざとらしい書き方をしているものがあったと思います。「数十億年前に分裂・増殖して「生きていく」というプログラムを組み込んだ「生命」という物体ができてしまったから、今でも相変わらず必死で生きている。」という考え方です。ここには先の宣教師との話が隠れていました。
 別にどこかへ向かっているわけではなく、生命の目的なんてなく、次々生まれる固体がみんな必死でやってるだけなんだ、と。それから、冒頭の専門家さんも言ってましたけど、感情や文化や学問なども自然淘汰の副産物でしかないけれど、でもやっぱりそれで十分素晴らしいと思う。

 私は、最後まで人間として精一杯やっていこうと思います。死んだ後に救済なんかしてくれなくて構いません。超人になるつもりもありません。自分にできる精一杯で考えて、自分に出来る精一杯で行動して、それで最後を迎えたら、それで十分じゃありませんか。

 …おや? ちょっと話がそれましたか(笑)

 文章の流れで紛らわしいものもありました。「死に正当な価値を与える」と「残された人の悲しみを和らげる」という文ですが、あの文章で読むと、「あの人は死ぬ必要があったんだ、と思うことで納得し、悲しみが和らぐ」と読めかねませんが、まったく逆のことを意図しています。

 最初の魚の例もありますが、生きている人は、ある意味で死んだ人のおかげで生きているわけです。誰かの「死」が、生きている人にとって重要なものであるということ。つまり、「あの人は何故死んだのか それは残った自分達にとってどういう意味を持つものなのか」を考えるに値する「価値」のあるものである、ということ。そう捉えることで、見知らぬ人の死も、あるいは家畜の死にすらも、深い意識を向けていくことができるのではないか、と考えているのです。
 そしてまた、その「死」の価値を見つめ、誰かの死をただ感情のままに悲しむのではなく、未来へと向けて捉え直すことで、悲しみが和らいでいくのではないか、ということなのです。

 最後の「大切にすべきものは、やはり大切なものであり続けて欲しい」に言及して、おしまいにしようと思います。
 これはもう私の価値観でしかないですけれど、「自分にとって、自分達にとっての善悪や美の感覚、そして生命力を、どれだけ研ぎ澄ませていけるか、どれだけ高次元にしていけるか、どれだけ現実のものにしていけるか」だと思うのです。それぞれの時代で、それぞれの生物が、精一杯それをやるしかないんだろうと思うのです。

 だって、「生き抜こうとするプログラム」が入ってるのが生命なんですから。