行き着くところ。

 経済的な面、人間的な面でも、社会に様々な問題が起きていることは誰の目にも明らかになっている昨今。過去にも大勢な人が、その問題解決に奮闘してきている。

 先日、「生活の芸術化」という本を読んだ。大学の授業の参考書として買ったものの、読んでいなかった本。本の中では、J.ラスキンという工芸デザイナー兼経済学者の話が扱われていた。彼は「人間にとって社会にとって本当に価値のあるものを創造することが、社会経済を発展させていく」という信念を持ち、市場経済を利用しつつも生活を「美しく」する方法を模索していた。

 社会主義、というものがある。私はこれを、経済の主体を「お金」から「人間」へと引き戻す手段として捉えている。経済学への私の理解には不十分な点が多すぎるので、いま改めて調べ直しているところですが…
 レーニンの「帝国主義論」を読んだ。資本主義が企業独占を生み、帝国主義へと向かっていく、という状況への警告の書。この文章の節々から、私はこのレーニンさんの切なる願いをひしひしと感じた。世界をもっと良くしたい、という強い願い。

 縁あって私が学んだ芸工大は、40年ほど昔に小池新二(漢字合ってるかな)という工芸デザイナーが、「技術を、技術のためのものではなく、真に人間のためのものとして取り戻す人間を育てる」ことを信念として、バウハウスを手本に作ったものだ。
 私は「火祭り」という言わば芸工大スピリットの中枢のような企画の代表を務めたことがある。そこで芸術工学を解体しながら感じたのは、やはりこの小池新二という人物の果てしない情熱だった。

 資本主義の根本的な欠点は、人間の「お金」への欲求を前提として考えられている点。つまりそれは、「人間性」うんぬんの話を置き去りにして論理が構築されているということ。これは論理としては正しいが、私利私欲に走る人間を否定できないという点で、社会に様々な問題を呼ぶことは確実である。
 社会主義は、発想として私はとても良いと思っている。しかしその欠点は、それほどまでに社会の計画を立てられ得る人間は、まずいない、ということ。また、政治の中心人物が私利私欲に走れば、社会主義は言葉だけのものになる。社会の構成員(国民)一人一人が、社会主義への好感を持てるかどうかも非常に怪しい。

 結局のところ、どちらの主義を中心に据えるとしても、国民(世界市民)一人一人が「社会を良くしよう」と思わぬ限り、悪い方への道はいくらでも存在するのだと思う。

 私が火祭り頭を務めながら考えた「芸工大に本当に必要なものを取り戻す」ための企画「まつりおおはし」も「plusG」も、いま思い返してみれば、要するに、なかなか授業では教わることの出来ない「デザイナーとしての人間性」や「心構え」を身に付けるためのものであったと思う。
 芸術工学とは、「芸術と工学を融合した新しい技術(学問)」ではなく、それらを融合させ真に人間・社会のために活動していくようにデザイナーを導く、人間存在をかけた学問なのだと今は思うようになった。

 社会をより良く導くための方法として、いままで私は「教育」という解答を少し避けていた。社会が悪いのを安易に教育のせいにするのは、何も生まないと考えていたからだ。
 しかし、やはりここに行き着くのだと思う。より多くの人間を「社会/世界をより良くしていくことが最大の喜びである」と感じるように育てることが、やはりその方法なのだと思う。どんな経済・政治の主義を持つのであれ、どんな技術に携わる人間であれ、この点さえ本当に踏まえているならば、間違った方向には進まないはずだ。

 やはり、人間自身の教育が鍵なのだ。

 しかし忘れてはならない重要なことが2つある。第1に大人自身を教育する必要がある、ということだ。子供達に影響力を持っている大人に考えが足りないならば、やはりそれを矯正する必要もあるのではないか。彼らの価値観を正しい方向へと導く「教育」が重要になると私は思う。
 第2に、教育は学校の中でのみ行われるわけではない、ということだ。路面電車で乗り合わせた小さな子の瞳を見ていれば、そんなこと理屈ぬきに分かる。彼らのまなざしは、時にそこらの大人なんか比べ物にならないほど深いからだ。子供達は、自分の周りにある全ての事から、自分の周りにいる全ての人から、ありとあらゆることを学んでいく。ならば、その空間を美しさや感動にあふれた場所にしていく必要があるのではないか。

 ある人が「美しさも感動も知らない人が子供の前に先生として立つなんて、子供に失礼だ。」と発言していたのを、本当によく思い出してしまう。

 もし自分の衣食住の生活、仕事、社会環境、生活態度を、この「子供」を中心に考えるなら、新たな世界が見えてくるのではないだろうか。私には子供はおろかカミさんもいないけれど、大切な我が子にどんな事を感じ学んで欲しいかから考え直すならば、身の回りの環境から社会の環境まで、ずいぶん違っていくと思うのだ。
 「自分にとっては」安く済むもので良くても、「子供のためには」自然食品・天然素材・偽造品でないもの・美しいもの・心のあるものを選ぶのではないだろうか。
 ちょっと考えを発展させれば、大量の廃棄物、公害、自然破壊も「子供にとって」悪いものになる事は分かるはずだ。きちんと「我が子」を中心に考えるならば、それらのものは選ばないのではないか。町や都市のことも、「我が子」が暮らし感じ学ぶ場所である事を思えば、やはり良くしていく事を考えるのではないか。

 「嘘偽りはよくない」と教えるのなら、そして子供は自分の嘘くらい見抜けると真に受け止めるならば、やはり自分自身が「嘘偽りない」生活を送るのではないか。

 これからの世界を担う子供達にとって、また子を育てる大人達にとって、また彼らを取り巻く環境としてふさわしいものとして「社会」や「ものづくり」を考えるというのは、重要なことだと思うのだ。そうして考え抜かれた本当のデザインが、そこに暮らす/それを使う人を育て、巡り巡って社会を良くしていくのだと思う。

 作り出す人間は、それを我が子に与えられるかを基準にデザインすべし。
 受け取る人間は、それを我が子に与えられるかを基準に選択すべし。

 これはごく当たり前のこと。
 でも、忘れかけていたとても大切なこと。

「行動する人間は、それを大切な人に見せられるかを基準に行動すべし。」