Apoptosis

 残酷な話を書いてしまうのかもしれませんが、いつも気になるテーマなので文章化してみようと思います。

 最近たまたまBSE(牛海綿状脳症)や癌について少し調べていて、久し振りに「アポトーシス(Apoptosis)」という言葉に出会いました。正確な定義は知らないのですが、「生物の細胞が、固体全体の形成または存続ために、積極的に死んでいく現象」のことです。
 分かりやすい例を挙げると、

・人間の体細胞のほとんどは常に新しい細胞に取り替えられており、古い細胞が死んでいくことで体全体が健康に保たれている。
・通常では癌細胞が生まれても、転移していく前に細胞が自滅して、体全体が死んでいくのを未然に防いでいる。
・胎児の手は初め水掻き状の膜があるが、水掻きの細胞が死んでいくことで指のある手が形成されていく。

 …といったところでしょうか。

 ただ「積極的に死んでいく」といっても、細胞が「私は死にます!」と言っているのかどうかは知りません。強制的に死ななければならない環境が何者かによって作られ、死んでゆくのかもしれません。

 人間はなぜ死ぬんでしょうね。そもそも生物はなんで死ぬんでしょうね。別に一代で何億年も生きていたっていいわけです。細胞は常に新しくできるんだから、必要なエネルギーさえ摂取できれば不可能ではなさそうです。
 ところが細胞核のDNAには、「○回分裂を繰り返したら、そこで死滅する」というプログラムが仕込まれているようだ、という研究があるようです。

 どういうわけか、生物というものは「生き続けていく」ことを目指してしまうようです。はるか数十億年前、最初の生命が誕生した瞬間から、どういうわけか「分裂・増殖」することがセットされているようです。そういう物体ができてしまったから、未だに分裂・増殖を繰り返している、とも言えます。

 環境は変わる。その変わった環境に適応しながら「生き続けていく」ために、古い個体は死に、新しい個体を作り出すことで、その環境の変化に対応している、と考えることが出来ます。そうまでしてでも、なんとかして生命として「生き続けよう」としている、とも言えます。(そんな機能が備わっちゃったせいで、未だに生命は存在している、とも言えます。)

 さて、人間の体の中のアポトーシスは、どうも人間の体が存続していけるために発生しているようです。(どういうわけかアポトーシスが起こるがゆえ、人間の体は存続している、とも言えますね。)
 この「人間の体」を、「人間」という生物種全体、あるいは「生物」という存在全体に置き換えてみると、どうなるのでしょうか。

 ここから、非人道的と言われるかもしれない、残酷かもしれない事を書きます。
(誤解を招かぬよう、読み始めた方は必ず最後まで読み通してください。また一部のみの記事の転用を禁止します。)

 人間が死ぬのは、老化だけではありません。病気の場合もあります。交通事故の場合もあります。戦争の場合も、殺人の場合も、飢餓の場合も、そして自殺の場合もあります。
 これを「アポトーシス」という観点から見てみるとどうなるのでしょうか。もしこの死んでいった人間達がアポトーシスの死であるならば、人間という種、あるいは生物という存在が生き続けるために、積極的な理由で死んでいった、と考えることが出来ます。
 言い方を逆にすると、こうして何らかの条件の人間が死んでいくことによって、人間という種が、生物という存在が生き続けている、と考えることが出来ます。

 つまり、ある何らかの条件の人間が死ぬということが、人間という種の存続のため、生命という存在の維持のためには必要不可欠かもしれない、と考えることができます。

 更に言い方を変えると、世の中に事故や戦争、飢餓、殺人、自殺が存在するのは、人間という種が、生物という存在が生き残り続けるための「調整作業」かもしれない、と考えることができます。

 だとすれば、「戦争のない世界へ」「世界から飢餓をなくそう」「自殺はよくない」といった発言は、ひょっとしたら人間全体、生命全体のためには的を得ていない発言かもしれません。もし戦争や飢餓、殺人や自殺が本当になくなったら、何か別の方法で「調整作業(アポトーシス)」が遂行されるだけなのかもしれません。そしてそれは、もっと深い悲しみを伴うものかもしれません。

 これはただの仮説です。なぜなら、生命の目的は(仮にそれがあったとしても)残念ながら絶対に客観的に判断することはできないのだから。何しろ、自分自身が今まさにその主体である生命なのですから。
 そして勿論、「戦争や自殺は無くしてはいけない!」と言うつもりも全くありません。ただ謎を解き、問題を解決していきたいだけです。

 そして、もし自分の大切な人が死んでいったら、とても悲しいと思う。

 この考え方を深めていっても、何がどう分かってくるのか、さっぱり予想もつきません。けれどもし、もっと死を深く理解できて、人や生物の「死」に正当な価値を与えることが出来れば、大切な存在を失った人の悲しみを、少しは和らげられるかもしれません。普段もはや意識せず殺している食用の家畜や作物にも、深い意識を向けてやれるかもしれません。死んでいく存在も、少しは納得しながら死ねるかもしれません。

 知恵や技術がどんなに深まっても、どんな事が起こる世の中になっても、大切にすべきものは、やはり大切なものであり続けて欲しいと願います。